2014.10.14(火)
会津が生んだ伊東正義さんについての素晴らしい記事です。 シェアさせていただきます。
伊東正義さんの略歴はこちら。 http://aizue.net/siryou/itoumasayosi.html
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伊東 正義(いとう まさよし)の略歴
首相になりたくて なれなかった者は 多数いるが、 首相になって欲しいといわれて断ったのは 伊東正義だけである。
(資料提供) 小林守 氏 .
大正2(1913)年
12月15日 父/秀三郎と母/秀の3男として、会津若松市日新町で生まれた。
◇ 本籍: 会津若松市日新町三二八番地 (旧/善久町)
◇ 住所: 会津若松市上町二番十二号
父は、旧制/会津中学校 (県立会津高等学校) の教師をしていた。 母は、幼稚園教諭をしていた。 兄弟は、兄/2人、姉/2人、妹/1人。 祖父の会津藩士/伊東健輔は、戊辰の役で奮戦している。 会津藩には、藩校/日新館の教授を勤めた伊東本家と、分家3家があった。 飯盛山で自刃した白虎隊士/伊東悌次郎は、一族である。 伊東正義は、分家の子として誕生。
昭和5(1930)年
3月 旧制/会津中学校を4年で飛び級し、卒業。 在籍中、旧会津藩士/山川健次郎 (東京帝国大学総長) の公演を聞き、東大を目指すこととなる。
4月 旧制/浦和高等学校 (埼玉大学) 文乙に入学。
昭和8(1933)年
旧制/浦和高等学校を卒業し、東京帝国大学 (東京大学) 法学部に入学。
昭和11(1936)年
東京帝国大学を卒業し、農林省に入省。
昭和14(1939)年
中国大陸の興亜院 (華忠連絡部) に出向し、生涯の朋友となる大平正芳と出会う。 ※興亜院とは : 昭和13(1938)年、内閣に設置した対中国政策を業務とする機関 (上海・南京) 帰国したが空襲で焼け出され、大平の自宅に寝泊まりする間柄になっていた。 一般的なエリード官僚の道を歩んで、平凡な生涯を過ごすはずだった。
昭和21(1946)年
農林省農政局肥料課長に就任。
昭和22(1947)年
商工省化学肥料第二課長に就任。
昭和23(1948)年
農林省会計課長に就任。
昭和26(1951)年
農林省総務課長に就任。
昭和27(1952)年
水産庁漁政部長に就任。
昭和28(1953)年
食糧庁業務第一部長に就任。
昭和30(1955)年
東京営林局長に就任するが、同年に名古屋営林局長へ異動。 農林大臣/河野一郎との対立する意見を論破し反抗したため、食糧庁から外され、さらに名古屋営林局長に左遷させられた。 政治家としての才能を見いだしたのも河野とされ、後に農林事務次官を最後に退官し、政治の道を歩むこととなる。
昭和31(1956)年
経済企画庁審議官に就任。
昭和32(1957)年
経済企画庁総合開発局長に就任。
昭和33(1958)年
農林省農地局長に就任。
昭和36(1961)年
水産庁長官に就任。
昭和37(1962)年
農林省事務次官に就任。
昭和38(1963)年
農林省事務次官を退官する。 天命であったのだろうか、これ以降は政治の世界で活躍する。
昭和38(1963)年
自由民主党に入党。
党歴 /全国組織委国民生活局社会福祉部長同/水産組織部長同/農林組織部長
政調機械化順応問題副委員長政調林業基本問題委員会委員長
政調農林部会副部会長政調山村振興対策特別委員長
政調土地問題調査会副会長政調審議委員政調副会長
政調海洋対策特別委員長
11月21日 第30回衆議院議員総選挙に福島2区から、自由民主党公認で出馬し、初当選。 50歳。 官職 / 社会労働委員会、大蔵委員会委員に就任。
昭和39(1964)年
団体職 / 全国農業共済協会会長に就く。 団体職 / 全国さんま捧受網漁業生産調整組合理事長に就く。
昭和41(1966)年
団体職 / 日本国土調査測量協会会長に就く。 団体職 / 日本土壌協会会長に就く。
昭和42(1967)年
1月29日 第31回衆議院議員総選挙で落選。
この年 団体職 / 福島県農業共済組合連合会会長に就く。 団体職 / 畑地農業振興会会長に就く。
昭和44(1969)年
12月27日 第32回衆議院議員総選挙でトップ当選 (福島2区、2期目) 官職 / 社会労働委員会理事に就任。
昭和47(1972)年
12月10日 第33回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、3期目) 官職 / 社会労働委員会委員、農林水産委員会委員に就任。
この年 団体職 / 全国農業共済協会会長を退任し顧問に就く。 団体職 / 全国漁業共済協会会長に就く。
昭和48(1973)年
団体職 / 福島県農業共済組合連合会会長を退き、顧問に就く。 団体職 / 土地改良測量設計技術協会会長に就く。後に退く。
昭和50(1975)年
団体職 / 全国共済水産業協同組合連合会会長に就く。
昭和51(1976)年
12月5日 第34回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、4期目) 官職 / 予算委員会理事に就任。
昭和54(1979)年
10月7日 第35回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、5期目)
11月9日 初入閣にもかかわらず、大役の官職 / 国務大臣 内閣官房長官 (第43代) に就任。 (第2次大平内閣)。
この年 団体職 / 畑地農業振興会会長を退く。
昭和55(1980)年
6月11日 官職 / 国務大臣 副総理に就任 (第2次大平内閣)。
6月12日 官職 / 国務大臣 内閣総理大臣臨時代理に就任 (大平正芳の急死により)。 内閣総辞職の手続を執りまとめ、内閣総理大臣臨時代理の任を選挙後まで完遂し、選挙で圧勝した。 ポスト大平として総裁の要請があったが、朋友の急死の直後との理由で固辞した。 大平派の鈴木善幸が総裁になったが、外務大臣を要請され就任することとなる。
6月22日 第36回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、6期目)
7月17日 官職 / 国務大臣・副総理を退職。 官職 / 内閣総理大臣臨時代理を退任。 官職 / 内閣官房長官(第43代)を退任。 官職 / 外務大臣(第109代)に就任 (鈴木善幸内閣)。 団体職 / 大臣就任のため、日本土壌協会会長を退く。
昭和56(1981)年
5月 官職 / 外務大臣を退任。 鈴木善幸および内閣が、日米同盟の共同声明の解釈を巡り二転三転するのに反発し、辞表を提出した。
7月 1日 団体職 / 日本土壌協会会長に再び就く。
この年 団体職 / 日本塩工業会会長に就く。
昭和57(1982)年
団体職 / 日中民間人会議日本委員会代表に就く。 団体職 / 日本パキスタン友好連盟会長に就く。
昭和58(1983)年
12月18日 第37回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、7期目)
この年 団体職 / 日本エジブト友好協会会長に就く。
昭和59(1984)年
団体職 / 日中友好議員連盟会長に就く。 団体職 / アジア・アフリカ問題研究会会長に就く。
昭和61(1986)年
7月6日 第38回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、8期目) 党職 / 自由民主党 政務調査会長(第32代)に就任。
昭和62(1987)年
10月 党職 / 自由民主党政務調査会長(第32代)を退任。 党職 / 自由民主党総務会長(第30代)に就任。 引き続き党三役の一角を占め、重鎮として能力を発揮する。
この年 団体職 / 福島県土地改良事業団体連合会会長に就く。
昭和63(1988)年
団体職 / ユニセフ議員連盟会長に就く。
平成元(1989)年
党職 / 自由民主党 総務会長(第30代)を退任。 リクルート事件で竹下首相が退陣し、金権腐敗に縁のない清廉な伊東に、派閥を超えて総裁を要請される。 国政を憂い、就任の条件として、リクルート事件に関与した党幹部全員の引責辞任を求めた。 竹下首相、中曽根前首相、安倍幹事長らに役職だけでなく、 「一度 議員バッジを外し、けじめをつけるべき」 と迫ったが、保身を図るだけで誰1人として責を取る者はいなかった。 今に伝わる名句、 「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ」 の苦言を呈し、総裁就任を頑なに固辞することとなる。 一般的にいわれている「総理就任を断った」ではなく、伊東は大改革へ挑戦したのである。 結果として、「実権のない名目上の総理大臣になる」ことだけは受けなかった。 権力をイメージする「総裁」の役職名を、「代表」にすることも決めていたという。 この時点で変わっていれば、その後の自民党の体たらくは無かったという人は多い。 この件については寡黙だったが、翌年に発行された母校「会津高等学校百年史」に、当時の心境を語っている。 「~~ 自己の主義主張を曲げることなく信念を貫いて行動したものであり、いささかも恥じることではありません。 世渡りは下手ですが、一人りくらい愚直な人間がいても良いと思っております ~~」
平成2(1990)年
2月18日 第39回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、9期目)
平成3(1991)年
10月 政治改革本部長を辞任。
平成5(1993)年
体調不良により、第40回衆議院議員総選挙に不出馬。 政界を引退した。
平成6(1994)年
5月20日 東京都内の自宅にて、肺炎のため死去。 「竹を割ったような人」とも評され、最後まで会津の教え 「ならぬことは、ならぬものです」 を信条として貫き通し、国民を心から思いやり、やさしい心で共感させ感動させ、腰のズボンのベルトに手ぬぐいをねじ込み、ぶら下げて執務をした硬骨で清廉のハト派議員の傑物は、この世を去った。 享年81歳 (満80歳)。 「間雲院正義一徹居士」。 墓所は、鎌倉霊園にある。 大平首相の緊急入院で内閣総理大臣臨時代理を務めたが、周りから首相の部屋での執務を勧められても内閣官房長官執務室で仕事を続け、決して首相の席には座らなかった。 首相になりたくてなれなかった者は多数いるが、首相になって欲しいといわれて断ったのは伊東正義だけである。 党の三役を務めていた時でさえ、雨漏りする家に住むほど質素な生活を続け、業者から資金を集めたり利益を受けることは全くなく、金権政治には無縁のクリーンさを貫き通した稀有の政治家であった。
死後、叙勲の話しがあったが、妻/輝子は、故人の遺志に反すると固辞した。 全国から数多くの手紙があったという。 夫人は、叙勲に賛成と反対の手紙を別々に入れる袋を設け、分別したという。 賛成と反対の数は、拮抗していたそうだが、 「夫を理解していた人は、ほとんどが反対だった」 と後に語っている 名の通り「正義せいぎ」を貫き通した会津魂/伊東正義の支持者も、同様に「正義」を通したのだ。
「政治家は何になるかではない。何を為すかだ」 「道徳に古いも新しいもない。ダメなことは、いつの時代でもダメなんだ」 「米国などの市場原理主義は日本の風土に合わない。 世界の中で生きるために競争に負けない仕組みは構築すべきである。 しかし、争いを好まず、明日に枯れる花にも水をやる優しい心を持ち合わせる日本の伝統や文化を大切にする人間愛に満ちた政治でなくてはならない」
伊東正義を伝える書籍
★ 最後の会津人 伊東正義 - 政治は人なり [笠井 尚/歴史春秋社] ★ 伊東正義先生を偲ぶ [伊東正義先生回想録刊行会]
産経新聞の特集記事
死後11年を経て、産経新聞に特集記事が組まれた。 ◇ 平成17年(2005年)3月15日(火)火曜日から3月25日(金曜日) 要点だけだが、良くまとめられている。
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小林茂
2014年10月14日
「世論調査」というより、「世論誘導調査」と看破した小林富久寿さんの論陣へのコメントに会津っぽ伊東正義さんのことが触れられている。 歴史上の人物のようになりつつあるようだが、伊東さんの志の高さは、困難な時にあってこそ、我々が刻んでおくべき生き方ではないだろうか。今、この状況を伊東さんならどう言うだろうか?そう考えながら、次のような駄文をコメントとした。 〈一徹居士こと伊東正義さん。リクルート問題でポスト竹下の総理総裁に擬せられながら、「表紙だけ変えても(自民党の中身が変わらなくては・・・)」と断固、固辞し続けたことを、思い出します〉 〈「表紙だけ変えても」は、この知事選の政権禅譲茶番劇を見ていて、なお一層、志の高低ということを強く思います〉 以下は付け足し。今年6月に伊東正義さんについて、ある方のブログに想を得て書いた一文。 ****** 折りに触れて、わが福島の政治家・伊東正義さんを思い出す。鎌倉霊園。長くお世話になった方の墓参りのたび、休憩所からほど近い所にある、伊東正義さんのお墓にも手を合わせるのがならいだった。 311大震災、そして原発事故。この時、伊東さんが健在だったらどのような采配を振るっただろうか?と、考えた。 今、安倍内閣の、歴史を無視した暴政と、それに諫めることすらできない翼賛的与党の有様に、一徹一言居士の貴重を思う。
宇治敏彦さんという方のエッセー「伊東正義氏の頑固さが懐かしい昨今の政界」(2010年4月24日)を読み返している。その一節を拝借する。リクルート事件の後を受けて総理に擬せられた時のこと、そして、伊東さんの精神の原点たる会津のことなど・・・。
〈私は堀内(編注・堀内光雄氏=通産相、自民党総務会長など歴任)さんと同様に、伊東さんに総理総裁になってほしいと思った。しかし、竹下、中曽根氏両氏らが議員バッジを付けたままで「表紙だけ変えても」という伊東さんの気持ちは微動だにしなかった。竹下首相の要請を断った直後に伊東さんから手紙をもらった。「拝啓 お手紙拝読いたしました。私の出処進退については種々の批判は覚悟の上、一切弁解はいたしません」〉 〈いかにも会津っぽの伊東さんらしい頑固さだ。以前、講演で会津へ行ったとき、地元の人から会津っぽ気質について説明を受けた。「長州(山口市)の市長さんが『1868年の会津戦争から大分経つので会津若松市と姉妹都市関係を結びたい』と私らの市長に申し出があったのです。だが私たちの市長は『まだ早過ぎる』と断ったのです」〉 〈私は問いかけた。「会津には伊東先生のような白虎隊精神を死守している政治家もいる一方、田中派の渡部恒三先生のような柔軟な政治家もいますね」。すると地元の人は即座に返答した。「渡部先生の選挙区は会津田島ですから。あそこは天領だったのですよ」〉 〈なるほど、同じ会津でも一刻者の生粋会津人と、天領(幕府直轄地)に育った融通無碍な会津人とでは異質だというわけか〉 〈1994年、伊東さんがなくなった後、当然、叙勲の話が出たが、輝子夫人は故人の遺志を体して固辞した。そのときも「『死んでも頑固』余話」というコラムを書いた(同年11月9日、東京新聞、中日新聞朝刊)ら岐阜県国府町で農業をしている木下(きした)行雄さん(当時70歳)から長文の手紙を頂いた〉 〈農林省のエリート官僚だった伊東氏が河野一郎の農相に抵抗して名古屋営林局長に左遷された時の部下だったという。木下さんによると、伊東夫妻は時々、名古屋で旧営林署仲間と会合していた。「ポスト竹下」の要請を受けたときも名古屋へみえたそうで輝子夫人は「そんなもの引き受けたら私は出ていきます」と言っていたという。木下さんの手紙には「本当は自民党が『なってもらっては困る人』と思っていたのでありませんか」とあった〉 〈後日、輝子夫人に聞いた話では「全国から受けろ、受けるなという手紙がたくさんきて、賛否の別に紙袋に保存しておきましたが、ちょうど半々でしたね。伊東をよく知っている人ほど反対でした」という〉 〈政治家・伊東正義も頑固一徹なら、支持者もまた頑固だったのだ。ちなみに伊東さんの戒名は「間雲院正義一徹居士」〉 (以下略)